[完結] 敵の友達
ja.lee
3,496 80
チェン
パク・ジフン QA


ドアが開いた。

十センチほど。掛け金は掛かったままだった。

「……。」

「こんにちは。」

「……。」

「あの—」

ドアが閉まった。

(閉まった。)

廊下には蛍光灯が震える音だけが残った。イレは十秒ほどそのまま立っていた。

「…あのう。」

「買いません。」

「何をですか?」

「何でも。」

「売るものじゃないんですけど。」

「そんな人が一番売るんですよ。」

イレは笑った。十一年ぶりに、他人にとっては全然おかしくない状況で笑った。

「ムンイレさんでお間違いないですね。」

中からは何の音もしなかった。

それからまた、掛け金を外す音。

302号室は六畳ほどだった。

窓が一つあったが、発泡スチロールでふさがれていた。防音というより、ただふさいだだけに近かった。壁には卵パックが貼られていて、その半分は剥がれてテープで貼り直されていた。

机の上にシンセサイザー。その横にオーディオインターフェース。その横にコーヒーカップが四つ。どれも別の日のものに見えた。

(ここであのアルバムが出たんだって。)

「座るところはありません。」

「立っていてもいいです。」

「じゃあ立っててください。」

イレは椅子に座った。座りながら背を向けた。モニターを見ているふりをしたが、画面は消えていた。

「僕の名前は—」

「知ってます。」

「…はい。」

「知らない人がいますか。」

口調に棘はなかった。そのほうがよかった。ただ事実を言う声だった。

「アルバム、聴きました。」

「どれをですか。」

「《無名》です。」

イレの手が止まった。マウスの上で。

「…それ、廃盤なんだけど。」

「中古で買いました。」

「いくらで。」

「……。」

「いくらで買ったんですか。」

「二十二万円です。」

イレが初めて振り返った。

「正気ですか?」

「はい。」

「……。」

「僕が買ったんじゃなくてマネージャーが買ったんですけど、まだ怒ってます。」

「当然です。あれ原価一万二千円ですよ。」

「安いですね。」

「高いんです。五百枚しか売れなかったから。」

イレはまた背を向けた。

「それで何です。サインしてほしいんですか?」

「曲を書いてください。」

部屋が静かになった。冷蔵庫の回る音がした。

(この音だ。)

(3番トラックに乗っていた低域ノイズ。ここの冷蔵庫の音だった。)

「やりません。」

「条件は—」

「条件なんて聞いてません。」

「どうしてですか。」

「ユン・ジェハさん。」

イレが椅子を回した。今度は完全に。

「僕が今、何をしてる人か知ってますか?」

「……。」

「曲を書いてるんです。毎日一曲。アイドルの曲。デモを渡して、ダメ出しされて、書き直して。僕の名前は載りません。契約がそうなんです。」

「でも、それが悪いわけじゃない。僕は給料をもらってる。三百二十万。」

「あのアルバムを作ってた頃、僕は一か月に四十万しか稼げませんでした。」

「……。」

「あのアルバム、いいって言う人がたくさんいます。ラジオでも流してくれたそうです。でも知ってますか? あれが流れたあと、僕に連絡してきた人が何人いたか。」

「二人です。一人はユン・ジェハさんで、もう一人は保険の設計士です。」

ジェハは何も言えなかった。

「だから帰ってください。僕、あのアルバムの話をされるの嫌なんです。」

「…どうして。」

「よかったものを、よかったって言ってくれる人が十年後に来たら。」

「それは慰めじゃなくて、請求書です。」

ジェハはドアの前まで行った。

そして振り返った。

「8番トラックです。」

「……。」

「2番サビの一小節目、歌詞を間違えましたよね。」

イレの肩がこわばった。

「一小節まるごと抜けて、半拍遅れて入りました。でも消してなかった。」

「…お金がなくて。」

「嘘です。」

「何ですって?」

「マスタリングを一人でやったんでしょ。それはお金がないからで合ってます。でも8番トラックを録り直すのにお金はいりません。マイクを入れて、もう一回歌えばいいだけです。」

「消してないんです。」

イレがジェハを見た。初めて、ユン・ジェハではなく一人の人間として見た。

「私はそれ、できません。」

「僕は十二曲あります。今。全部完璧です。音程も外れてないし、発音も潰れてないし、サビも全部あるし、三分二十秒です。」

「そのうち一曲も聴けません。」

蛍光灯が震えた。60ヘルツ。

「私はその失敗がうらやましいんです。」

「それが僕がここに来た理由です。曲を買いに来たんじゃない。」

「……。」

「失礼しました。」

ドアが閉まった。

階段を下りていたら、下から誰かが上がってきた。

短い髪、黒いパディングジャケット、片手にコンビニ袋。女だった。

女がジェハを見た。マスクの上に出た目だけ。

「……。」

「……。」

女は通り過ぎた。三段ほど上がって止まった。

「あの。」

「はい。」

「302号室に行ってきたんですか?」

「…はい。」

「振られたんだ。」

「…はい。」

女が笑った。声を出して笑った。

「そりゃそうだよ。あの子、十年ずっと誰にも曲あげてないもん。」

「…くれるって言ってたんですか。毎日あげるって聞いたんですけど。」

「あれは売るって意味でしょ。」

女はコンビニ袋を持ち直した。

「あげるのと売るのは違うよ。」

「チョン・ウィジョルです。あのアルバムでドラムを叩きました。」

「知ってます。」

「だよね。クレジットに二人しかいないから。」

ウィジョルはジェハを上から下まで見た。

「何回来たの?」

「今日が初めてです。」

「じゃあ、あと二回だね。」

「…はい?」

「あの子、三回は断るから。いつも。」

ウィジョルは階段を上り切った。

「でも四回目は断らないよ。」

「そこまで来る人がいないだけで。」

302号室のドアが開いて閉まる音がした。

ジェハは踊り場に立っていた。

ポケットの中に、ひびの入ったCDケースがあった。

(二回。)

車は路地の外に停めてあった。

ミンソクが運転席から窓を下ろした。タバコの匂いがした。十年もやめると言い続けている。

「どうだった。」

「振られた。」

ミンソクがジェハを見た。

そして見続けた。

「…は?」

「振られたって。」

「おい。」

「うん。」

「お前、今笑ってんのか?」

ジェハは助手席のドアを開けかけて、自分の顔に触れた。

(笑っていた。)

「…あ。」

「……」

「ユン・ジェハさん。僕、十一年ずっとそばにいたんですけど。」

「その十一年で、兄さんが振られるのを一度も見たことないんですよ。」

「そうだな。」

「なのに、なんでそれが嬉しいんだよ。」

ジェハは答えなかった。車に乗った。シートベルトを締めた。

車は路地を抜けた。バックミラーの中で、看板のない四階建ての建物が小さくなった。

「ミンソク。」

「うん。」

「オ代表が言ってた。俺、十七の時に一か月で十二曲書いたって。」

「…書いたさ。」

「本当?」

「本当だよ。全部クソだったけど、十二曲だった。」

信号に引っかかった。

「あれ、どこ行った。」

ミンソクはハンドルを握ったまま前を見ていた。

信号が変わった。後ろの車がクラクションを鳴らした。ミンソクは発進しなかった。

「…倉庫にある。」

ジェハがミンソクを見た。

「練習室を片付ける時、全部捨てろって会社で言っただろ。」

「でも捨てられなかった。」

後ろの車がまたクラクションを鳴らした。

「CD-Rに焼いたやつ。三十何枚かあるはずだ。カビてるかもな。」

「…なんで。」

「くれ。」

「ジェハ。」

「くれよ、ミンソク。」

ミンソクがアクセルを踏んだ。

「…頭おかしい奴。」

ミンソクの倉庫は金浦にあった。

コンテナだった。ミンソクが錠を開けるのに五分かかった。鍵が合わないんじゃなくて、錠が錆びていた。

「これ、五年ぶりに開けるんだ。」

ドアが開くと、中から冷気が流れ出た。紙の匂いとカビの匂い。

中は暗かった。ミンソクが懐中電灯をつけた。

アンプがあった。スタンドがあった。折れたシンバルスタンド。ケーブルの束。そして箱たち。

「…これ全部何だ。」

「練習室にあったやつ。」

「捨てろって言っただろ。」

「捨てたって言っただけだ。捨てるとは言ってない。」

ジェハはアンプに触れた。指にほこりがついた。

自分のアンプだった。十五歳で買ったもの。中古で十八万ウォン。

「見つけた。」

ミンソクがラーメン箱を引き出した。ふたが折れていて、角がへこんでいた。

中にはCD-Rがぎっしり入っていた。三十数枚。ケースごとに油性ペンで日付。

ジェハはそのうち一枚を取り出した。

2012.03.11.

(十七歳。)

ミンソクが懐中電灯で壁のほうを照らした。

ポスターが貼ってあった。A3サイズ。プリンターで出したもの。インクが全部飛んで、青だけが残っていた。

バンド名が書いてあった。

月光。

その下に四人の名前。そのうち二つは、もう連絡が取れない。

ジェハはそのポスターを長く見た。

「ジェハ。」

「うん。」

「お前、なんでこれをやめたか覚えてるか。」

「…会社にやめさせられたろ。」

ミンソクが懐中電灯を下ろした。

光が床に落ち、ミンソクの顔が暗くなった。

「違う。」

「…え?」

「それじゃない。」

ジェハがミンソクを見た。

ミンソクはジェハを見ていなかった。ポスターを見ていた。

「ミンソク。」

「…いや、やっぱいい。」

「箱だけ持っていけ。重い。」

ミンソクがコンテナの外へ出た。

ジェハはしばらくそこに立っていた。

ポスターの中の四人は笑っていた。画質が悪くて表情は潰れていたが、笑っているのはわかった。

(…俺がやめたのか?)

その考えは十三年ぶりに初めてだった。

その日の午後、会社。

オ・サンホンは窓際に立っていた。彼は座って話すということをしない。

「発売日、決めた。」

「…はい?」

「十一月二十一日。流通会社には通告済みだ。」

ジェハはカレンダーを数えた。四か月だった。

「曲がありません。」

「十二曲あるだろ。」

「あれは使えません。」

「ユン・ジェハ。」

オ代表が振り返った。相変わらず怒った顔ではなかった。

「お前、最近どこ行ってる。」

ジェハは答えなかった。

「チャ・ミンソクが言わなかったんだろ。十一年、俺には何でも話してたのに。」

「あいつがお前をかばうのは初めてだ。」

「……。」

「じゃあ、いい。」

オ代表が書類をめくった。

「四か月やる。誰とやろうが構わない。」

「でもジェハ。」

「はい。」

「十一月二十一日にアルバムが出なければ。」

「その時は俺が十二曲で出す。」

彼は書類を机に置いた。

「お前の名前で。」

ジェハは会議室を出た。

廊下は静かだった。この建物は防音がいい。

(四か月。)

(三回目まで、あと三回。そして四か月。)

翌日の午後、論峴洞。

Kのスタジオは302号室と全部逆だった。広くて、明るくて、人が多かった。窓があって、その窓から日差しが入っていた。

イレはその部屋で三年働いていた。

「イレ、今回のは本当に出来がいい。」

「ありがとうございます。」

「向こうのA&Rがデモ聴いて即OKだった。こんなの初めてだよ。普通は三回は落とされる。」

「よかったです。」

「タイトルになるかもってさ。」

イレはモニターを見た。波形が出ていた。昨夜三時まで触っていた波形。

「クレジットは。」

Kは少し止まった。

「…イレ。」

「知ってます。ただ聞いただけです。」

「ごめんとは言わない。それは礼儀じゃない。契約なんだから。」

「はい。」

「俺はお前を騙したんじゃない。お前は契約書を読んでサインした。」

「はい。読みました。」

Kは悪い人ではなかった。

イレがこの仕事を三年続けているのはそのためだった。悪い人だったら、とっくにやめていた。

「イレ。」

「はい。」

「最近ちょっとおかしいぞ。」

「……。」

「昨日のデモ、サビのつながりが妙だった。八小節抜けてた。」

「私が埋めました。大丈夫ですよね?」

イレは答えなかった。

Kは出て行った。ドアが静かに閉まった。そのドアは302号室のドアと違って音がしなかった。

イレは一人残った。

そしてバッグから何かを取り出した。

ひびの入ったCDケース。自分のアルバム。

十年、一度も開けなかったもの。

(なんで出したんだ。)

イレは8番トラックをかけた。

1番のAメロが過ぎた。2番が来た。

一小節目で、二十四歳のイレは歌詞を落とした。半拍遅れて入った。

イレは停止ボタンを押した。

(なんで消さなかったんだろう。)

(…覚えてない。)

それがいちばん怖かった。

三日後。

302号室のドアが三回ノックされた。

イレは今度はドアスコープを見なかった。誰かわかっていた。

ドアを開けた。掛け金まで外して。

「二回目ですね。」

「はい。」

「……。」

ジェハは紙の箱を持っていた。ラーメン箱ほどの大きさだった。角が濡れていた。

「それ、何ですか。」

「僕のデモです。」

「…はい?」

「十七歳の時に書いたやつです。三十一曲あるって。僕もまだ数えてないんです。」

イレは箱を見た。ふたが開いていた。CD-Rがぎっしり立っていて、ケースごとに油性ペンの字があった。日付だった。

「私、聴かないって言いましたよ。」

「知ってます。」

「じゃあなんで持ってくるんです。」

「置いていこうと思って。」

「……。」

「断るなら、聴いてもらわないと。」

イレはしばらく言葉を失った。

「それ、どういう理屈ですか。」

「聴かずに断ったら、それは僕を断ることじゃないですか。」

「僕の曲を断ってください。それが公平です。」

イレはジェハを見た。

十一年間、失敗したことのない俳優。売れなかった作品はなく、スキャンダルもなく、インタビューもいつも無難な人。

その人が今、濡れたラーメン箱を持って三階分の階段を上がってきて、自分の曲を断ってくれと言っている。

「…これ、カビ臭いんですけど。」

「倉庫にありました。」

「何年ですか。」

「十三年です。」

イレは箱を受け取った。

受け取ってから、自分が受け取ったのだと気づいた。

「…一曲だけにします。」

「十分です。」

「それで断ります。」

「はい。」

「本当にですよ。」

「知ってます。」

ジェハは階段のほうへ向き直った。

「ユン・ジェハさん。」

ジェハが止まった。

「どうして私なんですか。」

ジェハはしばらく答えなかった。

「…わかりません。」

「……。」

「それが、僕が最近いちばんわからないことです。」

「だから来ました。」

ジェハは階段を下りた。

夜十一時。

イレは箱を机の下に押し込んだ。そこから二時間耐えた。

十二時四十分に箱を取り出した。

一番上のCDを抜いた。油性ペンで「2012.03.11」と書いてあった。裏面にカビの跡があった。

プレーヤーに入れた。

再生。

…ひどかった。

ギターが先に鳴ったが、チューニングが狂っていた。意図ではなく、ただ狂っていた。3弦が30セントほど低かった。

リズムが揺れた。クリックを使っていないのは明らかだった。

声が入った。十七歳。

高音で喉が割れた。割れるのを知っていて、なお張り上げていた。

(歌えないじゃん。)

イレは苦笑した。声は出さなかった。

そして消さなかった。

2番トラックが来た。

3番トラック。

4番、5番。

曲は全部短かった。一分を超えるものはなかった。サビがあるものもあれば、ないものもあった。あれば古臭く、なければ妙だった。

十一曲目でイレはコーヒーを淹れ直した。

十九曲目で毛布を持ってきた。

二十三曲目で、十七歳のジェハが曲を途中で止めて悪態をついた。

「あっ、くそ……。」

そしてまた最初から弾いた。録音を止めずに。

イレはその部分を三回聴き返した。

午前三時四十分。

三十一番トラック。

最後の曲だった。それは少しだけましだった。ほんの少し。

一分三十秒ほどで曲は終わった。

だが録音は止まらなかった。

ギターの音が消え、部屋の空気の音だけが残った。どこかで蛍光灯が震えた。60ヘルツ。

そして一分四十秒に、十七歳のジェハが言った。

「…これ、誰も聴かないだろうな。」

笑う声がした。

そして録音が切れた。

イレは停止ボタンに手を置いたまま座っていた。

押せなかった。

十年ぶりに、他人のデモを最後まで聴いた夜だった。

(…聴いたな。)

(三十一曲全部。)

窓は発泡スチロールでふさがれていたから、外が明るくなるのは見えなかった。

同じ夜。江辺北路。

ジェハは箱をまるごと渡して帰ってきた。

一枚を除いて。

倉庫で最初に取り出したやつ。2012.03.11。ポケットに入れたことをイレには言わなかった。

なぜ抜いたのか、自分でもわからなかった。

車にCDプレーヤーはなかった。今の車にはない。だからジェハはミンソクの古いノートパソコンを借りた。外付けドライブまで。

助手席にノートパソコンを置き、路肩に車を止めた。

一か月前、イレの曲を聴いて車を止めた、あの場所だった。

(偶然だ。)

偶然ではなかった。ジェハはその場所を覚えていた。

CDを入れた。ドライブがしばらく回った。十三年物のCD-Rを読むのには時間がかかった。

再生。

ギターが鳴った。

チューニングが狂っていた。

ジェハは三秒で停止を押した。

……..

もう一度再生。

声が入った。十七歳の自分の声。

高音で割れた。

停止。

ジェハはハンドルに額をつけた。

(なんで聴けないんだ。)

再生。停止。

再生。停止。

十二回ほど繰り返した。いちばん長く持ったのは四十秒だった。

彼は十一年間で、自分が出た映画を三十本見た。試写会で、舞台あいさつで、授賞式のクリップで。自分の顔を何千回も見た。

それは何ともなかった。

それは自分じゃないからだ。

でもこれは自分だった。

(歌えないじゃん。)

(ほんとに歌えないじゃん。)

するとふいに、妙な考えが浮かんだ。

(あの人はこれを何曲目まで聴いたんだろう。)

時計を見た。午前二時十分。

(いや。聴いてないか。まだ一曲も聴いてないはずだ。)

(そりゃそうだ。俺でも聴かない。)

彼はノートパソコンを閉じた。

閉じてから、また開いた。

再生。

今度は一分二十秒耐えた。

そして切った。

車内は静かになった。防音のいい車だったから、何の音もしなかった。川の音も、通る車の音も。

ジェハはその静けさの中で一時間座っていた。

(三十一曲。)

(俺は一曲も聴けなかったのに。)

その事実を知るのは七時間後だった。

朝八時。302号室のドアが開いた。

ウィジョルがコンビニ袋を持って入ってきた。おにぎりが二つとコーヒー。

イレは毛布をかぶって椅子に座っていた。モニターは消えていた。

「徹夜したの?」

「…ああ。」

「曲?」

「違う。」

ウィジョルが袋を置こうとして止まった。

机の下にラーメン箱があった。ふたが開いていて、CD-Rが半分ほどはみ出して床に散っていた。

「これ何。」

「ゴミ。」

ウィジョルは一枚拾った。日付を見た。

「2012年? おい、これ俺らのデビュー前じゃん。」

「…これ、あの俳優のやつ?」

「うん。」

「聴いたの?」

イレは答えなかった。

「イレ。」

「…ああ。」

「何曲。」

「……。」

「何曲聴いたって聞いてるの。」

「…三十一曲。」

ウィジョルはCDを置いた。

そして笑った。声を出して。

「なんで笑うの。」

「おい。」

「なんで。」

「お前、十年ずっと俺のデモも聴いてないじゃん。」

イレがウィジョルを見た。

「俺、三回渡したぞ。2019年に一回、2021年に一回、去年一回。」

「三回とも聴いてないだろ。」

「…忙しかった。」

「嘘。」

ウィジョルは椅子を引いて、イレの前に座った。

「俺が二回目に渡した時、お前が何て言ったか知ってる?」

「…覚えてない。」

「よかったらどうするんだって言った。」

イレの手が毛布の中で止まった。

「まったく同じ言い方だった。よかったらどうするんだって。」

「その時はそれがどういう意味かわからなかった。でも今はわかる。」

「よかったら、やりたくなるだろ。」

「やりたくなったら、また四十万ウォンしか稼げなくなる。」

イレは何も言わなかった。

「お前、今それだろ。」

「…違う。」

「イレ。」

「違うって。」

ウィジョルは手を伸ばして、イレの毛布をかけ直した。

イレは避けなかった。

「怖いなら、怖いって言いなよ。」

「それは拒否じゃない。」

蛍光灯が震えた。

イレは毛布の外に手を出して、おにぎりを取った。包みを開けようとして失敗した。二回目も失敗した。

ウィジョルが黙って取り上げて開けてくれた。

「…ウィジョル。」

「うん。」

「あのデモ、まだある?」

ウィジョルがイレを見た。

「…あるよ。」

「……。」

「でもあげない。」

「なんで。」

「四回目はあげないって決めたから。」

ウィジョルは立ち上がって、コーヒーをイレの前に置いた。

「先に電話しなよ。あの人に。」

「何て言うの。」

「断るって言うんでしょ。」

「じゃあ断らないと。そうでしょ?」

ウィジョルは出て行った。

イレはコーヒーを長いこと持っていた。冷めるまで。

午前九時。ジェハの携帯が鳴った。

知らない番号だった。

「…もしもし。」

「聴きました。」

ジェハはベッドから起き上がって座った。

「…何曲ですか。」

「三十一曲です。」

ジェハは何も言えなかった。

「一曲だけ聴くって言ったのに、ちょっとそうなりました。」

「……。」

「それから。」

「やりません。」

ジェハは目を閉じた。

「…はい。」

「二回目ですね。」

「はい。二回目。」

「……。」

電話は切れなかった。

息の音が聞こえた。向こうも徹夜した人の息だった。

「でも。」

「はい。」

「31番トラックの2分40秒です。」

ジェハの手が止まった。

「曲が終わって、録音が切れなかったところ。そこで何か言いましたよね。」

「これ、誰も聴かないだろうな。」

「それで笑いましたよね。」

「……。」

「なんで笑ったんですか?」

ジェハは答えられなかった。

十一年間、彼はどんな質問にも答えられた。インタビューで、授賞式で、ファンミーティングで。答えのない質問にも、答えのように聞こえることを言えた。

でも今は何も出てこなかった。

「わからないんでしょう。」

「…はい。」

「じゃあ、いいです。」

「それに答えられるようになったら。」

少しの沈黙。

「三回目に来てください。」

電話が切れた。

ジェハは携帯を持ったまま、しばらく座っていた。

窓の外に漢江が見えた。防音のしっかりした家で、何の音もしなかった。

冷蔵庫の音も、蛍光灯の音もなかった。

(二回。)

(あと一回。)

電話を切ってから、ジェハはようやく気づいた。

あの人が自分の番号をどうやって知ったのか、聞かなかったことに。

そしてあの人も、自分がなぜ電話したのか言わなかったことに。

断るために電話する人なんていない。

断るのは、ただしなければいいだけだから。

(…二回目。)

(あと一回。まだ答えはない。)

ジェハはその日一日、その質問を考えていた。

なぜ笑ったのか。

撮影現場で考え、控室で考え、メイクを落としながら考えた。

十七歳の自分がなぜ笑ったのか、三十歳の彼にはわからなかった。

(見下して笑ったのか。)

(それとも、楽しかったのか。)

(誰にも聴かれないとわかっていて、なんで三十一曲も作ったんだ。)

その答えを出すには、十七歳の自分に会うしかなかった。

だが、あの子がどこへ行ったのか思い出せなかった。

会社が連れていったのか。

それとも自分が送ったのか。

ミンソクが倉庫で言いかけて飲み込んだ言葉が、ずっと引っかかっていた。

それじゃない。

(それじゃないって、何があるんだ。)

ジェハはその夜、初めてミンソクに電話をかけた。十一年間、いつもミンソクのほうからかけてきたのに。

「ミンソク。」

受話器の向こうは静かだった。

「練習室、まだある?」

次回予告

ジェハは十七歳の部屋へ戻る。

十三年間、誰も開けなかった練習室。その中に答えがある。

そしてミンソクが倉庫で飲み込んだ言葉が、そこで出てくる。

「…お前がやめたんだ、ジェハ。」

一方イレは、ウィジョルのデモを探しに出る。十年の間に三回断ったそれを。

三回目の訪問まで、残りの時間は四か月。

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